このところ随分ホームページの更新をサボってアクセス数もかなり減ったかと思いきや、そうでもなくて、もうちょっとサボろうかとも思ってるのですが...
ところで、建築史って興味あります?
ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック...「古典主義」とか「新古典主義」だとか
さっぱり解らないですよね。
私が学生時代にちっとも勉強しなかったからという原因だけじゃないはずだ!...と思う今日この頃。
今回はそのお話し。
奈良国立博物館と京都国立博物館って似てるでしょ。
Q.あの様式は何なのか?
1.バロック
2.ネオバロック
3.ルネサンス
バロックとかネオバロックだとかいう回答が多そうだなぁ
ハズレ!
あれは片山式です。 ...てなウソを書くと抗議がありそですな。
んじゃ
Q.東京駅って何様式?
1.クイーンアン
2.ビクトリアンゴシック
3.辰野式
あっ今度はバレました? 3.辰野式が正解
建築士会のHIROBAという雑誌に奈良の近代建築について書いたのでそれを載せちゃいます。
寝る前に読むと吉。
うちの嫁さんに校正を頼んだら「もう難しくて解んない」と1ページ目を読んだところで眠くなって嫌になったようですから。
(例によって写真は割愛してます)
古都奈良の様式建築
古都奈良の明治維新
慶応3年(1867)10月、大政奉還。江戸幕府は崩壊し徳川慶喜は統治権を朝廷に返還する。12月には王政復古が宣言され明治維新を迎える。翌年(明治元年)明治新政府は王政復古を期にそれまで寺院の支配下におかれた神社を分離し、全国の神社を直接の支配下におくことにより国家神道政策を進めるため神仏分離令を発する。江戸時代に檀家制度により威勢をふるっていた仏教に対する反感は強く、低い地位に追いやられていた神官や民衆は廃仏毀釈運動を展開するにいたる。奈良では春日社と一体となっていた興福寺はとりわけ大きな打撃を受け、門跡などの貴族の子弟の僧は興福寺を離れ空家同然となり、この時期に古文書や美術品などの貴重な寺宝類が多く失われた。さらに、明治4年政府は中央集権をはかるために大名の土地と支配権を朝廷に返還させる版籍奉還が発せられると、興福寺ではその領地は失われ築地塀や庫蔵等が解体撤去されてしまう。大乗院をはじめ多くの建物が売り払われ、一条院や金堂は没収され、それぞれ県庁、警察署にあてられた。古都奈良の衰退は「秋風や囲いもなしに興福寺」と正岡子規の句にしのばれる。
奈良帝国博物館
明治8年になると官民合同による博覧会社が設立され、東大寺大仏殿を会場として正倉院宝物をはじめ、廃仏毀釈の風潮からのがれた貴重な寺宝類が陳列された。すでに江戸時代中ごろから奈良晒をはじめとした地場産業がふるわなくなっていた奈良は古都の遺産を活用した観光産業に取り組み始める。明治16年に日本の伝統的美術や文化の研究者である帝国大学教授アーネスト・F・フェノロサと岡倉覚三が奈良に調査にはいると、彼らは古都奈良の文化芸術は、ギリシア、ローマと比肩するものとしてその保存を強く訴えかけた。宮内省は奈良、京都に博物館の設置を決定し、明治27年宮内庁技師片山東熊(1854-1917)の設計により奈良で最初の洋風建築である奈良帝国博物館(現奈良国立博物館本館)が完成する。奈良帝国博物館は煉瓦造洋式木骨小屋組方式を採用した。基壇には花崗岩を用い、柱、コーニス(*1)、メダリオン(*2)等は、日本で産出されない大理石の代わりに、その時代を経した風合いに近い表情をみせる沢田石という静岡産の粒子の細かい砂岩を用いている。正面中央には櫛型の円形ペディメント(*3)を冠し、コリント式双柱で支えている。両脇はニッチで飾り、中央のボリュームを際立たせる堅実な後期ルネサンス様式(*4)にみられる構成をとりながら、両袖へはピラスター(*5)間に窓の意匠を模した装飾を配し装飾的なフレンチバロック様式(*6)でまとめている。片山は翌年に京都帝国博物館でさらに技術的な完成をみせ、その後の42年間を費やした赤坂離宮に至っては繊細で華麗なネオバロック様式を採用し、既に日本の建築が世界の宮廷建築に比肩する質と技術力を有したことを証明して見せた。奈良帝国博物館は日本における近代建築史上記念碑的な大作であるにもかかわらず、当時の評価は様々であったようだ。見学に訪れる者があとをたたず、昼夜交代で警官が警護したとういうほど人々の関心が高かった一方で、古都奈良の歴史的な中核地に建った洋館は理解しがたいものだったのであろう当時の知事は県内の社寺に陳列品を出品しないよう働きかけ開館が遅れるというような騒動も起こった。
奈良県庁舎
明治27年(1895)、奈良県庁舎建築計画のため奈良県土木工事技師に嘱託された長野宇平治(1867-1937)には、県議会から「奈良の地は我国美術の粋とも称すべき古建築の渕叢(えんそう)たり。世人既に似非西洋風建築に嫌厭す。宜しく本邦建築の優点を採るべし。」と注文が付く。似非西洋風建築とは先の奈良帝国博物館を指している。長野は明治26年工科大学造家学科(現東京大学)卒業後、横浜税関嘱託技師となり、妻木頼黄設計の横浜税関監視部の監理を行う。その妻木の紹介で新庁舎建築計画中であった奈良県の土木工事技師に嘱託される。工科大学で辰野金吾のもと最新の建築技術を学んだ長野は発注者の注文に新しい試みで答えてみせた。たわやかな本瓦葺の大屋根には鴟尾を据え、外壁は木造真壁造としながらも構造はアメリカ式木骨構造を採用し、中央を入母屋でひときわボリュームを持たせ正面には車寄せを配し、両袖はシンメトリに切妻の妻側を見せ張り出して見せる。明治期の洋館に多用されたパビリオン(別棟建)形式である。軒は深く張り出さず柱と縦長の上げ下げ窓を整列に配置し壁面の美しさを強調した。様式建築を学んだ長野ならではの手法で日本の伝統的木造建築と西欧建築を融合してみせた。日本固有の木造折衷様式は長野の奈良県庁舎から生まれたのだ。長野は竣工に際して次のように述べている。「公園の美観を害せぬよう、なるべく日本風の趣味を加え、震災にも意を用いた。木材は花山から搬出したが、近来の大工事であるのと西洋風のため、熟練工と人夫に不足した。」その後、奈良公園周辺においては景観規制がなされ、旧奈良県物産陳列所、旧奈良県立図書館、奈良ホテル、日本聖公会奈良キリスト教会(親愛幼稚園)等がその影響を受けている。長野の折衷様式は、奈良県内にとどまらず、日本勧業銀行(東京内幸町)、旧二条駅舎(京都市)等へ影響を与えナショナリズムと相まって日本固有の木造折衷様式として展開されてゆく。
奈良県物産陳列所
奈良が古社寺保存の動向へと進む中、長野は明治29年に依願免官し工科大学の2年後輩にあたる関野貞(1867-1935)と交代をする。関野は奈良県の殖産興業を目的に地場産業の商品を陳列するための展示会場となる奈良県物産陳列所の建築にあたる。構造は長野の奈良県庁舎と同じく木造真壁造木骨構造であるが車寄せを唐破風で仕上げ、舟肘木、蟇股、八字型割束を用いるなど、日本の古建築のディテールを採用しながらも、窓にはサラセン風のモチーフを使うなどオリエンタルな風合いを見せているが、これが日本古来の伝統様式だと錯覚を覚えるほどの見事な出来栄えである。これだけの秀作を仕上げた手腕をもちながらも関野は後に建築作品を残さず、県内の古社寺の調査研究を行い修理事業を指導し、後に東京大学の教授となり日本の建築史のみならず広く考古学や美術史にその業績を残す。
つづく
2004.03.19