三匹のこぶたが産業革命が華やかな頃のイギリスで生まれたことは前編で触れましたが、今回はその後 日本へ渡ってきた三匹のこぶたたちの波乱万丈の人生を追ってみましょう。
□ 日本の「レンガ」の歴史
1860年頃、江戸幕府は西欧の列強の侵略に対抗できるよう、唯一国交のあるオランダの指導により艦船を造る長崎製鉄所を建造することになります。
その工事に際して、オランダからハルデス以下11名の技術者を迎え、国内ではじめて「レンガ」を生産しています。
これは煉瓦の耐火性能を期待したもので、工場、変電所などの耐火性能を必要とする建築用途に使用されることになります。
居宅にレンガを用いることになるのはもう少し後になります。日本の近代建築、いわゆる洋館は、同じく1860年頃、ヨーロッパ諸国の商圏の拡大と共にヨーロッパ〜インド〜東南アジア〜中国〜日本へとコロニアル建築が海を渡ってきます。
下見板を横もしくはナナメに張った下見板コロニアル(木造)が洋風居宅の主流となり、その代表的な建築はグラバー邸(1862)です。
そのグラバー商会の技術社員であったウォートルス(1842-)を明治政府が雇用することからレンガの建築史は一時代を築くことになります。
ウォートルスはレンガの耐火性能が都市部で頻発する大火に対して充分にその性能を発揮することから、大蔵省金銀分別所(1871),銀座煉瓦街(1873)等の大規模なレンガの建築を完成させます。
政府はその後、イギリスよりコンドル(1852-1920)、新興ドイツよりエンデ(1829-1907)・ベックマン(1832-1902)らの技術者を招聘しています。
エンデ・ベックマンは中央官庁集中計画に取組みます。途中でその計画は頓挫するものの司法省(1887),裁判所(1888)等を完成させています。
この流れが後に辰野、妻木といった日本人第一世代の建築家を誕生させ、明治中期〜後期にかけて中央官庁や銀行を中心にレンガを用いた建築様式が花開くことになります。
昭和になりモダニズムが台頭すると、レンガは鉄筋コンクリートに移り変わってゆきます。
なるほど、
江戸時代は鎖国政策であったために、三匹のこぶたたちが日本にやってきたのは明治になってから、いわゆる文明開化の時代であったと推測できます。この時代は、18世紀イギリスの産業革命、19世紀日本の文明開化とおよそ100年の時間の経過はあるものの時代背景はよく似ています。
末っ子のブタさんのレンガのお家は明治時代中期〜後期には、日本でも建築可能だったわけですから、その頃に大規模な建築物に限られ使用された高級建材であったレンガを用いたことは十分に想像できます。
さて、
三匹のこぶたたちは、イギリスと異なる日本の文化に触れることにより、それまでの住まいへの思いが変わってゆくことになります。
□ 日本の文化
コンドルが日本画や芸事に深い関心を持ったように、後のヴォーリズやライト、ウイキーさんもそうであったように、日本の魅力に引き込まれてゆきます。
それは、西欧にみられない文化や哲学が日本には存在するからなのです。
真行草(しんぎょうそう)
「真行草」とは、漢字の書体、真書(楷書)・行書・草書のこと。
一休(1394-1481)は、6歳で安国寺に入り禅僧として修行をはじめます。その後、西金寺の謙翁と出会い、生活に修行の場を求め全国を放浪します。晩年大徳寺再建の為呼び戻されるも、77歳にして40も歳の離れた森女(しんにょ)という盲目の鼓を打つ女性に出会った一休は、愛と煩悩の中に身をやつし余生を送ります。
そんな一休の生涯になぞらえ、「真行草」とは、「生」や「美」に対する哲学として華道や茶道に広義に用いられます。
「真」は最も正統で整った格式、「草」は真と対極に位置し、より精神性の高い格式であり、その中間を「行」と呼びます。
侘び寂び(わびさび)
「侘び」とは飾りやおごりを捨てた、ひっそりとした枯淡な味わい。「寂び」とは古くなって、色あせることで趣や渋みが出る味わい。のこと。
千利休(1522-1591)、堺の豪商であった利休は、大徳寺の大林宗套より宗易の法名を受け、その後、信長、秀吉の茶頭に務めます。
従来茶会が遊興性の高い饗宴の場であったものを、無駄を削ぎ落とし「侘び茶」の文化を確立します。
侘び茶の文化は建築様式にも大きな影響を与えています。一番格式の高い広間を「真」の造り<書院造り>、平常的な居間を「行」の造り<数奇屋造り>、くだけた楽しみの場を「草」の造り<茶室>とする邸宅の伝統な様式もこの成果です。
□ 正解のない選択肢
文明開化の時代に、三匹のこぶたたちはそれぞれに自分なりの家を建てます。
末っ子のブタさんは、耐火性能の高い新建材「レンガ」を用いて格式の高い家を完成させます。
二番目のブタさんは、最も普及している日本の伝統的技術で「木」の家をたてます。
一番上のおにいさんブタは、「ワラ」の家を建て、オオカミに家を吹き飛ばされると、弟たちの家に避難をしてしまう。この場当たり的な生き方も、ともすれば晩年の一休に通じるのかもしれません。
海を渡って日本にやってきた三匹のこぶたたちは、それぞれの方法がただの選択肢でしかなかったということに気付きます。また、日本の文化はそれらを抱合してしまうほどの懐の深さに驚いたことでしょう。
ん? と こ ろ で、日本オオカミって絶滅してたんじゃ...
参考にした書籍やサイト:
・日本の近代建築(上) 藤森 照信(著)
・一休 [f-anex]
・千利休 [戦国博]
2003.09.03